きまぐれ 鉄道日和

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震災から5年、東松島・野蒜へ再訪

生たらこの旬は冬だが、ぼちぼち出回り始めた。ビールとたらこは痛風に悪いとかいわれるが、好きなもんはやめられない |∀・)

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多分、去年あたりにも書いたと思うけど、生たらこの煮付けです。今日はインゲンを合わせてみました。あらかじめ一口大に切ってから煮るのが美味しく食べるコツ。
ネットを見てると、若い人の「たらこを生で食べちゃいました! やばいですか?」みたいな相談が普通にされている。大丈夫、君が食ったのは塩漬けだから。原材料名に塩の他、合成着色料だの発色剤だのといろいろ書いてあるでしょ? まあ、あの表示を見ると食欲が失せるのも事実だけど。年中出回っているあれとは違って、生たらこはそうした加工を施していない本当の生。保存がきかないが故に旬がある。逆に、「たらこを加熱するなんてありえねー」とかいう若い声もある。いや、昔から焼きたらことかあるじゃないですか。一体、何を食って育ったんだろうこの子達とか、若干興味がわく。アニサキスがいるかもしれないので、生たらこを無加工で食うのはやめといたほうがいい。
なお、たらこは北海道産。インゲンは福島産。なるべく被災地産のものを選んで食いたいというのが、震災以来の私の思いだったりする。

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…と、枕駄文と本題にいささかでも関連があるのは珍しいのだが、今回は、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県東松島市の野蒜に再訪してみた。
今回は、開業して間もない仙石東北ラインを経由し、HB-E210系に乗って行った。東北本線が交流電化、仙石線が直流電化と電化方式が違うこと、新設された連絡線が非電化であることから気動車の投入となったわけだが、このHB-E210系は、エンジンで発電し、電力で走る、いわゆる電気式気動車だ。エネルギー効率のいい電気式気動車が今後の主流になっていくんだろうが、まだまだ未完成の技術と見えて、客室内にでかい機械室があって定員を下げているのが残念だ。

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列車は、東北本線から仙石線に入る間に2回停車した。交流→非電化→直流と困難な直通をしているので、スムーズな行き来ができないのだろう。
仙石線に入って目に付いたのが、増設された防潮堤だった。美しかった車窓がこれで阻まれ、観光路線としての魅力は大きく減じてしまったが、これも仕方のないことだ。

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5年ぶりの野蒜駅は、当時とは全く違う場所にあった。運河沿いにあった駅は高台に移り、むしろ山の中の駅といった風情になっていた。

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野蒜の町そのものを高台に移そうというわけである。だが、新しい野蒜駅前は未だにこんな状態。山を切り開いて造成中の土地に、住宅はまだ1軒も建っていなかった。

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駅から坂を下っていくと被災地につながる。大きな建物が野蒜小学校で、それより高い所に新設された高架をHB-E210系が過ぎていく。かつての線路は、草がぼうぼう茂っている手前にあった。旧線のレールは、踏切部分を除いてほぼ撤去されているようだった。

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だが、旧野蒜駅は、レールも敷かれたまま、その廃墟が遺されていた。なお、5年前の状況はこちらをご覧ください。

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ホームだけでなく、駅舎も当時のままで、「野蒜駅」の看板が掲げられている上、新たに入居していたファミリーマートの店名も「東松島野蒜駅店」だった。きっと、旧野蒜駅を震災遺構として遺していく方針なのだろう。

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そんな予報じゃなかったが雨が降り出した。今回も超絶雨男の本領発揮である('A`) 本降りになってきたので、急ぎ足で坂を登り駅に向かうと、乗ろうとしている上り列車がちょうどホームに滑り込むところだった。通常、間に合いっこないタイミングだったが、いや、ここで下り列車と交換待ちをするはずと思い直して突っ走った。予備知識のおかげで、かろうじて間に合った。この列車に乗って、次の目的地・多賀城に向かう。(イノテツ)
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| 東日本大震災関連 | 23:06 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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それぞれの5年〜震災の日の荒川車庫

英国の名音楽プロデューサー、ジョージ・マーティン氏が亡くなった。90歳だったそうだ。その年齢からも時の流れを感じさせられたし、あの時代をリアルタイムで感じられなかったことが際限なく悔やまれる。
世間をして彼を「5人目のビートルズ」などと評するのだが、浅はかな知識でそんな失礼なことを言わないでほしいものだ。彼はビートルズの親方であり、「5人目」なぞでは断じてない。ビートルズを見いだし、その才能を開花させた立役者なのだ。
ビートルズは前期のアルバム『Help!』(1965年)まででも十分ロック史に名を残しただろう。だが、その真の巨大さを現すのは同年の次作『Rubber Soul』からだというのが、私も含めた一般的な意見だと思う。『Rubber Soul』のハイライトは「In My Life」から「If I Needed Someone」への流れだと個人的に信じて疑わないが、この「In My Life」でとりわけ印象的なピアノを弾いていたのがマーティンだと知り、すっかり彼のファンになった14歳の冬。特に中期以降の名作群、「未来永劫古びようがねえよ、ずりーよ」と少年時代の私が感嘆したサウンドは、彼なくしてでき得なかった。素晴らしい才能同士が奇跡的に融合し、至宝が生まれたのだ。
一方、ビートルズの解散と前後して、マーティンはエドワーズハンド、スタックリッジ、アメリカといったアーティストをプロデュースしており、これらもまた素晴らしい。巨大な才能が去ったことを惜しみ、追悼の思いを込めて、これらの作品群を聴いているところだ。

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東日本大震災の発生から5年という節目を迎えた。ここで改めて、犠牲になられた方々のご冥福と、被災者へのお見舞いを申し上げます。
この震災は東北関東沿岸部の被災地のみならず、首都東京を含めた広範囲が被害を受けた点で、日本の災害史上最も多くの人の心に残るものとなったのではないだろうか。あれから5年。変わり果てたもの、変わらずにいるもの、成長した人、年老いた人、それぞれだろう。5年前のこの日、帰宅困難者となってうちに泊まっていた父は既にこの世にいない。
この節目の時に私は何をしよう、そうだ、あの瞬間にいた場所に行こうと思い立ったのだ。5年前と違って今は忙しく、かつ天気が悪い上に花粉症の症状がひどく、外出どころではなかったのだが、押し寄せる仕事を徹夜でこなし、その時間にその場所へ行くことにした。
あの瞬間にいた場所とは、ここである。

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都電の荒川車庫だ。穏やかに晴れた午後だった。このとき震度5強の揺れに見舞われており、引退寸前の7500形7511号車(手前の車両)は激しく揺れていた。この様子はスチルで伝わるわけがないと、とっさに動画撮影に切り替えたことを覚えている。これはテレビでも採り上げられたし、世間で「後世に残すべき震災動画」の一つに数えられるような代物となった。

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そして14時46分、上の写真からちょうど5年後の瞬間がこれである。当時、引退直前の7511がいた場所には、デビューを控え車庫内で試運転をする新車8906号車がいた。隣の8800形と比べても、新味のなさには涙が出るほどだが、まあとにかく、こうして世代交代は進んでいるのだった。

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一方、昭和を知る最後の現役車両7000形は順次廃車が進んでいる。8両だけが残され、モーターなどの機器類を最新のものに換装した上で「7700形」と改名して再デビューすることになっているのだが、緑地に細いラインが入ったレトロ調の出で立ちとなった画像を見かけた。これはかなりかっこいいです♪ 最近妙にカラフルになった荒川線にあって、「ラインカラーはあくまで緑!」と主張する意味もあるのかも。新味という点ではむしろこちらの方があり、楽しみだ。でもまあまだあんまりばらしちゃいけない情報らしいのでこのくらいにして、素直に再出発を待つことにしましょう |∀・)

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「また明日 信じてるから いう言葉」
新聞に載ってた子供の句である。いい年こいた大人ですら、明日は普通にやってくると思っていないだろうか。震災は、子供がこういうことを思うような出来事だったのだ。辛い経験をしたことで、心の時間が止まってしまうことがある。私はそういうとき、その時計を無理矢理動かす必要はないと思っている。被災地では復興が進む。だが、地盤をかさ上げするために盛られた土の下に、まだ行方不明者がいるのではないかと懸念する声もある。何もかもを前に進めるべく急げばいいというものではない。アグレッシブばかりが先行すると、癒えぬ傷を抱える人たちが置き去りにされかねないのではないか…。最近はそんな風に思っている。(イノテツ)

| 東日本大震災関連 | 23:55 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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あれから18年…ようやく叶った陸前高田訪問

テロ組織・自称「イスラム国」による人質の殺害に対し、怒りと哀しみを覚える。
日本政府は、救出のための有効な手を打てなかった。ところが、その対応は概ね支持された。諦観みたいなものに由来するのなら悲しいことだ。
現行・昭和憲法は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」安全を保持すると謳っている。個人的にはとても崇高な考えだと思うが、一方、人間が持つ憲法には100万年早いわとも思ってきた。「平和を愛する諸国民の公正と信義」なるものが、全世界にあまねく行き渡っているわけではないことを、昭和憲法は想定していない。理想と現実の乖離の犠牲となって、国と国民が危険に晒されるのでは本末転倒だ。
もちろん、今回の事件のみをきっかけとして憲法改正に走るのだとすれば早計だ。実際、そういう論調も声高にいわれている。だがそうした意見は、すでに数十年に渡って重ねられてきた議論を正視していないのではないか。
憲法は100万年先などではなく、せいぜい100年先の理想を語るべきだ。そして状況が変わったなら、それに対応しなければならない。現実に目を向ける勇気が、主権者たる国民に求められている。

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一ノ関を出た大船渡線の列車は気仙沼で打ち切りとなり、ここからは仮復旧のBRTに乗り換える。画像のが、盛行きバスだ。気仙沼線BRTと異なり、駅前広場を発着する。一般道路を走り、普通に信号にひっかかる。なんじゃいこれ、単なる代行バスちゃうんけ('A`)
BRTとは、bus rapid transitの略であり、基本的には専用道を高速で走るバス輸送システムのことである。実は大船渡線BRTでも、陸前高田より先では線路を埋めた専用道になっている。また、気仙沼側でも3月の改正を機に専用道の供用が開始される。発着も駅構内となり、より本格的なBRTへと移行するだろう。

18年前、初めて大船渡線を訪れたときは夜だった。車内のアナウンスで「陸前高田」という駅名を初めて聞き、その響きに惹かれた。車窓から見える陸前高田駅は暗がりの中だったが、とても魅力的な佇まいで、次に大船渡線に来たときはここで下りて、ゆっくり街を歩いてみようと思ったものだった。
だが、震災が起きた。旅情をかき立てたあの駅も街も、津波に流されてなくなってしまった。

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BRTで下りた陸前高田駅はこんなだった。高台に設置された仮設駅舎で、元の駅の場所からは大分離れている。これでは、過去を偲ぶこともできない。だが、被災から4年にして、ようやく本格的な新駅舎に建て替わり、こちらも3月の改正から供用開始されることになった。詳しくはこちら。えらい簡素なデザインだが、他の再建駅舎にも使い回してるようだ。

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高台から見る、現在の陸前高田市街。この景色の中に大船渡線の線路があったはずだが、全く見当がつかない。あたかも新興住宅街の造成現場のようだ。ただ違うのは、大きく盛り土がされていること。土地全体をかさ上げしてからでないと、新たな街づくりもできないのだ。工事は着実に進められているが、4年も経ってまだこの状態だともいえる。被害の巨大さを感じずにはいられない。

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そしてやはり、これを見ておかなければと思った。奇跡の一本松。天気の悪さも手伝って、希望を感じるというよりも、普通に鬱になった。サイボーグ化してまで残すことに議論もあったわけだが、これを目的に当地を訪れる人は多い。近くには大きな駐車場があって、「一本松茶屋」という観光物産施設もでき、盛況だ。こうなってみると、悪い選択ではなかったのではないかと思える。

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BRTとなって設けられた新駅・奇跡の一本松駅。件の茶屋の向かいにある。駅とはいうが、どう見てもただのバス停である('A`) だがここも、隣駅の陸前高田駅の駅舎新築や専用道延伸によって様子が変わるんだろうと思われる。1日も早い復旧・復興を祈りつつ、ここで再びバスに乗り込んだ。(イノテツ)

| 東日本大震災関連 | 03:19 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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あれから18年…雨の気仙沼

ノロウイルスにやられたことを書いてから日が空いてしまった。とうとう氏んだか、不摂生のせいだバーカとか思われたかもしれないが、実際、7㎏痩せた_ノ乙(、ン、)_ それでもまだ、毎週元気にジョギングをしていた頃よりデブってるわけで、脂肪の備蓄に抜かりはないわけだが('A`) こんな体調でありながら、仕事始め以来、休日一切なしで突っ走った。ムック2冊の初稿を同時進行で仕上げた。実は、更新が滞った直接の理由はこれだったりする。とはいえ、うち1冊は鉄道関係なので、自分の写真をこっそり忍び込ませつつ、病身にむち打って頑張った。出来上がったら、また宣伝させてくださいね |∀・)

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私が最も盛んに旅行をしていたのは学生時代から勤め人時代の20代前半頃だった。金はなかったが責任もなく、ヒマと健康はあった。北海道から九州まで、全国各地の駅を宿にしながら歩き回った。
その頃、大船渡線にも初めて行っている。当時泊まったのは気仙沼駅の隣、鹿折唐桑駅であった。

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夜が明け、駅舎の前で暢気に歯を磨いてる写真が残っていた。平成9(1997)年7月と記録にあるので18年前の写真だ。JRに移行して10年経っているわけだが、まだ「国鉄乗車券発売所」の掲示が残っている。懐かしい駅舎だが、震災で津波を受け、今はもうない。

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同じ日に撮影した気仙沼駅である。記念写真だからしょうがないのだが、いちいち自分が写っていてうざい。まだフィルムの時代であり、フィルムをケチって資料写真を残さなかったのが、今になって悔やまれる。

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で、これが現在の気仙沼駅。様子が変わったかに見えるが、駅舎は昔のままだ。このリニューアルの仕方は先日紹介した伊予市駅に似ているが、こっちの方が本格的だ。被災した街の、てこ入れ策の一環なのだ。見た目立派になった駅舎だが、目立つのは地面の「BRT専用」の表示。震災前、3方向へ向けて発着していた鉄道のうち、2方向がBRTという名のバス代行輸送のままだ。

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気仙沼駅の1・2番線を跨線橋から見た様子。線路はアスファルトで埋められ、気仙沼線BRTの専用道路になっている。

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鉄道駅のホームにバスが滑り込んでくる様子はある意味新鮮な印象で、少なくとも専用道路を行くバスの姿に、代行輸送というネガティブなイメージは希薄だった。

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JRは、あくまでも仮復旧という形でBRTを導入し、地元も、本格的な復旧は鉄道でと望んでいる。市販の時刻表にも、あたかも鉄路が存続しているかのように掲載されている。だが、この「仮復旧」状態で固定されてしまいそうなのが心配だ。あくまで私が見た限りではあるが、バスでさばける程度の乗客しかいなかった。それも、不安をかき立てる要因だ。

同様に甚大な被害を受けた仙石線は、被災区間を高台に移設した上で、5月に全線再開することになった。それも、松島付近で東北本線との接続線を整備し、直通運転を行う「仙石東北ライン」開業のおまけ付きだ。これはこれで大変喜ばしいことなのだが、鉄道として存続させるという意思の濃淡が如実に現れているように感じられてならない。JRも営利企業である以上、ある程度仕方のない部分ではあるのだが…。(イノテツ)

| 東日本大震災関連 | 01:07 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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3月11日に撮った写真

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春の歩みが遅い。3年連続で平年の気温を下回る寒冬だったと発表があった。今年は特に記録的な大雪に見舞われて、そのイメージが強かった。冬の寒さはいまだに続き、梅の開花も随分遅れている印象だ。

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それでも徐々に日は長くなり、日向にいると、明らかに日差しが強くなってきているのを感じる。「寒い冬もいつか必ず春になる」。ポジティブシンキングの人は、好んでそんな言葉を使う。だがそうだろうか。冬の寒さに倒れた人に、春は来ないではないか。

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「神は超えられない試練を与えない」。そんな言葉も、今となっては虚しい。あの震災で、多くの人たちが超えられない試練に直面し、命を落とした。私にできることは、せめてこうして氏神様にお参りし、被災した魂たちが安らかであるように祈ることくらいだ。

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14時46分、半旗の下で黙祷を捧げた。

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3年前のこの日、止まってしまった鉄道各線も、通常通り動いていた。通常通りに過ごせることの有難さを、あれ以来、強く思うようになった。(イノテツ)

| 東日本大震災関連 | 23:04 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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